粥川城跡探訪
 粥川上流に向かって左側の山頂には、粥川城跡がある。天文年間(1550年頃)に粥川甚右衛門によって築かれたもので土盛りの一部が残っている。甚右衛門は粥川から苅安両村を領していたといわれます。八幡城主となった遠藤盛数・慶隆親子に属した有力在地土豪として名が見られます。甚右衛門は餌取六右衛門と共に遠藤慶隆をよく支えた人物。対岸の福野城、林廣院の鶴尾山城(苅安城)と合わせて「三城」と呼ばれています。

登城マップ

 美並苅安駅から三城橋を渡り郡上市美並町高砂地内から白山八幡神社参道から登城する。

登城口

白山八幡神社

白山八幡神社

 白山八幡神社でお参りを済せ、神社を右に巻いて登る。

白山八幡神社を巻いて登る

樹林帯

尾根に並んだ石

曲輪の周囲は特に北方面の切岸

山頂に祠あり、二段の削平地が残っている

曲輪

 郡上街道の交通の要衝
 丸山砦は42m×24mの小規模な城郭で居住空間が存在しないこと、構造が単純な縄張りで防御力に乏しいことから、見張り所・繋ぎの城としての性格を持っていたものと考えられる。また、長良川の上流から、深戸城・丸山砦・鶴尾山城・高原城・下田城があり、いずれも1㎞程の間隔で設置されており、鶴尾山城を中心とした支城ネットワークが構成されていたものと思われる。

丸山砦跡マップ

 永禄二年(1559年)遠藤胤縁が東氏により殺されると、その弟の遠藤盛数(鶴尾山城主)は打倒東氏を掲げて東殿山城を攻め、東氏を滅ぼした。この戦いの時に鶴尾山城周辺は一時的ながらも軍事的緊張がが高まった。そのため支城ネットワークを整備し、領土防衛を強化することが必要とされ、丸山砦が築城された。丸山砦の使用期間は極めて短く、東氏が滅び軍事的緊張が緩和されてからは丸山砦存続の必要性もなくなり、短期間で廃城になった。

丸山砦跡登城口

分岐

階段状の直登

東の尾根を直登

展望物見櫓跡

頂上の主郭部

長良川沿いから見上げる丸山砦

長良川鉄道・赤池駅へ向かう

 遠藤守数が築いた城
 この城は標高230mの山上にあったが、東海北陸自動車道の開設により遺構のほぼ全てが消失してしまった。福野城の河合氏を滅ぼし、鶴尾山城を構えた遠藤氏は、その後、主家の東氏も撃つことで郡上の支配者にまでのしあがる。そんな力をつけた遠藤氏の居城ということで、周りの城と比べてもかなり規模の大きな城だったようです。

林廣院

 林廣院に車を停め、右手の舗装された道を上っていく。やがて福徳天神生成に出会う。これは城跡の消失を悼んで建てられたもの。

林廣院から登り上がる

福徳天神生成

高速道路沿いに行く

高速道路渡道橋を渡る

苅安山の取り付き

林廣院城武将諸精霊菩提追善供養塔

曲輪の端部が土塁状に

苅安山四等三角点

粥川城跡のある山

粥川城跡のある山