揖斐城は、濃尾平野の北西端に位置する。標高351mの城ヶ峰から南西にのびる尾根が先端部付近で高まりを見せる部分、通称城台山に所在する。
■揖斐城跡
揖斐城は、さだかでないが、南北朝期に土岐頼康の弟、頼雄が築城したとされている。また、当時の軍忠状からは、この城が奥美濃もしくは越前からの敵の侵入に備えたものであったとのこと。廃城に関しては、天文十六年(1547)六代土岐光親の時、斎藤道三に攻められて落城。その後、斎藤氏の被官となっていた堀池氏が城主となるが、天正十一年(1583)に稲葉一鉄の急襲を受け、再落城したと伝えられている。
三輪神社神社から登り、城台山・城ヶ峰と縦走して三輪神社に戻りました。
探訪日2020/01/05
三輪神社
三輪神社の境内から城台山への遊歩道を登る。整備された階段状の道が続く。見晴らしの良い「みんなの森」を過ぎると金毘羅神社がありその脇を通り一心寺に向かう。
城台山への遊歩道
階段状の道が続く
一心寺
一心寺の本尊は、阿弥陀如来で北アルプス槍ヶ岳開山で知られる播隆上人が開祖となる寺です。正式には「播隆院一心寺」で、「ばんりゅうさん」の名で親しまれている。播隆は山岳にその浄地を求める独修独行の念佛行者と言われ、江戸時代後期、伊吹山での修行の折、揖斐にもお招きしたのがきっかけで、当時の領主 岡田善功(よしかつ)の家老 芝山長兵衛が播隆のために阿弥陀堂を建てた(1830年)のがはじまりといわれる。「阿弥陀堂」は第一期揖斐城趾の南の丸にあった。
一心寺本堂
見晴らしの良い城台山公園
東屋
さらに15分程進むと本丸南側に位置する四段の削平地群に到達する。ここが城の南西端となる。
階段状の道が続く
本丸南側
南の丸跡へ
本丸南側に位置する四段の削平地群最上段に南の丸がある。ここに一心寺の前身である阿弥陀堂があった。現在播隆上人の墓所がある。
南の丸跡
播隆上人の墓所
本丸
南の丸と本丸を画する崖は比高が10mあり、本来の切岸であるように思われる。本丸は、約20×60mで、現存する曲輪のなかで最も広い。この先に枡形虎口となる。
切岸
本丸の先に枡形虎口
枡形虎口跡
本丸の東端には枡形虎口が確認できる。枡形虎口を過ぎると曲輪との間には堅堀跡があり、細い土橋で結ばれる。ここを過ぎると二の丸となる。
堅堀跡
土橋
二の丸
二の丸を過ぎてその先の曲輪の中央部には、南側に降りる虎口と北側に降りる大手門がある。
曲輪跡
大手門跡
三の丸
大手門過ぎると三の丸となる。隣接する曲輪より一段高く出丸もしくは太鼓曲輪と伝えらる曲輪がある。周囲は切岸で整えられており、他の曲輪とは趣を異にしている。最も眺望が良い曲輪である。城の東端は、堀切によって明瞭に区画されている。
切通し跡
開けた眺望に池田山
一段と高い太鼓曲輪
出丸跡
北の丸跡
搦手跡の先には、城ヶ峰へ縦走
切通し跡
搦手跡
揖斐城跡遺構探訪を終えて城ケ峰に縦走。城跡から少の下りで尾根から、左城裏、右大光寺への分岐がある。ここを登り返していくと、反射板に広場に着く。ここからの道は今までの遊歩道とは変わる。登山道は尾根通しの道で手前ピークを巻いて二党三角点の城ケ峰に直登。帰路は往路を下山。
城ヶ峰へ縦走
城裏・大光寺分岐
反射板
城ケ峰